主祭神
大国主命(おおくにぬしのみこと) 言代主命(ことしろぬしのみこと)
配祀
高照姫命(たかてるひめのみこと) 溝咋姫命(みぞくいひめのみこと) 天穂日命(あめほひのみこと)
久伊豆神社は久伊豆大明神と古来氏子・崇敬者から崇められてきた、国造りの大神・縁結びの神・福の神として知られる大国主命(おおくにぬしのみこと)(大国さま)と、その御子神で父神と共に代表的な福の神である言代主命(ことしろぬしのみこと)(恵美須さま)を主祭神とし、また配祀として大国主命の御女子神である高照姫命(たかてるひめのみこと)、言代主命の御妃である溝咋姫命(みぞくいひめのみこと)、そして皇祖天照大御神(あまてらすおおみかみ)の第二の御子であり、出雲国造いずもの(くにのみやつこ)の祖先神である天穂日命(あめほひのみこと)の三柱を奉斎しています。
ご創建の年代は不詳ですが、平安時代中期以降には武士団武蔵七党の一である私市党(騎西党)の崇敬も篤く、除災招福の神として武士や庶民の信仰を集めてきました。応仁年間には伊豆国宇佐美の領主である宇佐美三八郎重之が埼玉郡騎西の地を領するところとなり当神社に古刀を奉献し、篤く尊崇したといいます。近世に入ると、徳川将軍家も篤く崇敬し、二代将軍秀忠、三代将軍家光も鷹狩りに際して参拝、休憩したと伝えられています。
また当神社は古来、現在の越谷市の中核となった元の四丁野村、越ケ谷宿、大沢町、瓦曽根町、神明下村、谷中村、花田村の七ケ所の総鎮守とされ、当神社の神宮寺として天文四年に開基された迎摂院(越谷山神宮寺)は五石の朱印を与えられました。
このように、当神社は往古より武士・庶民の崇敬・信仰を多く集めてきた御神威・御神徳により、明治の御維新の後は当地の総鎮守として明治六年四月に郷社に列格されております。以来、ご社頭はますますの繁栄、賑わいを見せて現在に至り、今日では氏子区域のみならず、県下はもとより広く全国に亙って信仰崇敬を集めております。
絵馬掛(えまかけ)
古来より、お願い事や感謝のしるしとして、神社に馬を奉納する風習がありました。これが転じて絵に描いた馬に代わったものが絵馬でございます。のちには馬以外の絵も描くようになり、当社においては平田篤胤大人奉納の大絵馬がございます。本殿の裏手には、その複製と皆さまの絵馬掛けがございます。
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境内摂末社(けいだいせつまっしゃ)
当社境内には12の摂末社がございます。全国に鎮座する霊験あらたかな神々を、この越谷の地にもお招きしようとの思いから勧請(かんじょう)されたものと思われます。それぞれの社には祭日が定められており、その神々の御神徳を賜わることのできるよう祭典を斎行しております。ご希望の方は上記の祭事歴を参照いただきましてご参列ください。
本殿後方(7社)
・稲荷神社 ・諏訪神社 ・五前神社 ・天満宮 ・三峯神社 ・御嶽神社 ・八坂神社
御池周辺(5社)
・二荒山神社 ・御合神社 ・三峯社 ・埼玉稲荷神社 ・水神社
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本殿(ほんでん)
拝殿の奥にある建物。大国主命・言代主命など五柱の神々を祀りしています。寛政元年(1789)に建造された三間社流造りの本殿は、随所に精巧な彫刻が施された荘厳な佇まいの建物です。
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旧官幣大社南洋神社鎮座跡地 遥拝殿(きゅうかんぺいたいしゃなんようじんじゃちんざあとちょうはいでん)
南洋神社は、南洋群島の中心地パラオ(現パラオ共和国のコロール島)に昭和15年2月11日、皇紀2600年に際して、昭和天皇の格別の思し召しにより創立された神社です。その御祭神を「皇祖天照大神」一座とする官幣大社であり、我々神社人が「本宗」と仰ぐ伊勢の神宮の「南洋における分社」ともいうべき神社です。その後、昭和20年8月の終戦によって、御社殿は御焚き上げとなり、神社の祭祀は終結、社殿跡地が残るのみとなりました。しかし、創立以来、南洋の地で開拓・入植に励んだ方々が、また戦時下、アジアの解放と大東亜共栄圏の実現を信じて、遥か遠く故郷を離れて南方の戦地へと赴いた部隊・兵士たちが篤い祈りと誓いを捧げられた事実は永遠に消滅するものではありません。
伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁・御神慮を拝し、神宮当局の御指導・御協力を賜って平成16年4月11日久伊豆神社境内に「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」を建立いたしました。この遥拝殿は、氏子・崇敬者共々遥かに、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった大神様の御霊を和め、遠く故国を離れた南洋の地に散華された英霊への感謝と慰霊・鎮魂、功績顕彰の誠を致す御殿です。
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拝殿(はいでん)
当神社例祭に際して行われる神輿の渡御還御は、昔から雨がつきものだといわれてきました。そこで、せめて出発と到着のときだけでも屋根の下で、との考えから昭和39年(1964)に建造されたのがこの拝殿です。
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足止めの狛犬(あしどめのこまいぬ)
家出や悪所通い多忙な仕事などで家庭を顧みない家族との絆をしっかり結びなおしたいという願いを込めて、狛犬の足に麻を結びます。古くから「足止めの麻」といわれています。
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待殿1(まちでん1)
社務所から拝殿へ続く回廊途中にあります。受付後、こちらでお待ちいただきます。
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待殿2(まちでん2)
社務所から拝殿へ続く回廊途中にあります。受付後、こちらでお待ちいただきます。
授乳室、おむつ替えスペースがございます。
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祈願受付所
参道から見て本殿左手前にあります。ご祈願などの受付はこちらで承ります。
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第三鳥居(だいさんとりい)
参道の一番奥にある鳥居。
伊勢神宮より撤下された皇大神宮の内宮板垣南御門(ないぐういたがきみなみごもん)の古材を拝領し、平成7年9月に建立されました。
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授与所(じゅよしょ)
こちらでお守りや御神札などをお分けしております。
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修道館(しゅうどうかん)
道場(修道館ホール)では空手道、剣道、体操教室などを開催しております。また、平日の午後は未就学児児童に開放しております。詳細はページ下部をご覧ください。
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祖霊社(それいしゃ)
久伊豆神社では、平成十八年六月三十日に先代の宮司である小林茂大人命の十年祭の斎行を機に、当神社に縁の方々のご先祖の御分霊を鎮祭し、古来、日本人の生活規範でもあり、神社信仰の根幹でもある「敬神崇祖」の順風美俗をより強固なものとすべく祖霊社を建立いたしました。この祖霊社は、当神社の境内にある神池の南側の一画に建てられ、ご本社とは勿論、他の境内摂末社とも截然と区別された森厳なる域内に設けられております。古来、「敬神崇祖」が神道の根本的信仰であることは、我が国最古の古典とされる『古事記』に「参神造化の首(はじめ)と作(な)り、陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為れり」と記されていることからも窺われますが、我が日本の国土や神々、そして「青人草(あおひとくさ)」たる人間も、すべては「祖」たる伊邪那岐神・伊邪那美神の二神がムスビの神の霊力に拠ってお生みになられたものであります。また、当神社のご祭神は大国主命であり、この大神は世に幸いを賜る神であると共に、氏子・崇敬者の「幽界」を司る神でもあるといわれております。このように当久伊豆神社の祖霊社は、ご祭神大国主命のご神徳を賜り、広く氏子・崇敬者の皆様方の「敬神崇祖」に寄与するものと確信しております。
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八坂神社(やさかじんじゃ)
南洋神社の隣に位置します。
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車清祓所(くるまきよはらえしょ)
こちらで交通安全のご祈祷を行います。参道入り口より向かって拝殿右奥に位置し、車では久伊豆通りを奥に進むと左手に清祓所への入り口(写真)があります。道路側の車清祓所門よりご乗車のままお入りください。
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参集殿(さんしゅうでん)・御神札渡所
参道から見て本殿右手前にあります。
ご祈祷をお受けになりましたら、こちらで授与品をお受け取りください。
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古札納所(こさつおさめしょ)
参集殿横に位置します。こちらで古い御神札・御守をお預かりしています。三が日に境内にてお焚き上げを行います。
※神事に関しない、雛人形やぬいぐるみ等はご遠慮いただいております。ご持参いただいた際の袋や包装紙等はお持ち帰りください。
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神楽殿(かぐらでん)
拝殿の左前にあります。御神楽を奏し、祈願を行う建物です。
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御霊水(ごれいすい)
手水舎の先、右手にあります。もとは境内の湧水でしたが、関東大震災の後地下の水位が下がり、自噴しなくなったため、現在は地下約250~300メートルの深層から汲み上げています。持ち帰り出来ますが、早めに召し上がりください。
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手水舎(ちょうずしゃ)
お参りする前にここで身を清めます。この手水舎は延宝三年(1675)に建造されました。「登竜門」の彫り物が施されています。
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木遣り歌碑(きやりかひ)
木遣りは、労働歌の一つ。御神木などの建築用木材を運ぶ際に唄われました。越谷の木遣りは文献などによると江戸開府以後当地に伝えられたとされ、上棟祝儀等に歌われていましたが、主に久伊豆神社祭礼の練歌、山車の曳歌として伝えられてきました。この記念碑は、木遣りを継承、保存する「越谷市木遣保存会」により建てられたものです。
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埼玉稲荷神社(さいたまいなりじんじゃ)
参道途中にあります。
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第二鳥居(だいにとりい)
参道を進むと二番目にある鳥居です。
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第一鳥居(だいいちとりい)
参道を進み最初にある鳥居。扁額には「正一位久伊豆大明神」と記されています。
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南洋神社は、南洋群島の中心地パラオ(現パラオ共和国のコロール島)に昭和15年2月11日、皇紀2600年に際して、昭和天皇の格別の思し召しにより創立された神社です。その御祭神を「皇祖天照大神」一座とする官幣大社であり、我々神社人が「本宗」と仰ぐ伊勢の神宮の「南洋における分社」ともいうべき神社です。その後、昭和20年8月の終戦によって、御社殿は御焚き上げとなり、神社の祭祀は終結、社殿跡地が残るのみとなりました。しかし、創立以来、南洋の地で開拓・入植に励んだ方々が、また戦時下、アジアの解放と大東亜共栄圏の実現を信じて、遥か遠く故郷を離れて南方の戦地へと赴いた部隊・兵士たちが篤い祈りと誓いを捧げられた事実は永遠に消滅するものではありません。
伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁・御神慮を拝し、神宮当局の御指導・御協力を賜って平成16年4月11日久伊豆神社境内に「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」を建立いたしました。この遥拝殿は、氏子・崇敬者共々遥かに、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった大神様の御霊を和め、遠く故国を離れた南洋の地に散華された英霊への感謝と慰霊・鎮魂、功績顕彰の誠を致す御殿です。

久伊豆神社では、平成18年6月30日に先代の宮司である小林茂大人命の十年祭の斎行を機に、当神社に縁の方々のご先祖の御分霊を鎮祭し、古来、日本人の生活規範でもあり、神社信仰の根幹でもある「敬神崇祖」の順風美俗をより強固なものとすべく祖霊社を建立いたしました。この祖霊社は、当神社の境内にある神池の南側の一画に建てられ、ご本社とは勿論、他の境内摂末社とも截然(ぜつざん)と区別された森厳(しんげん)なる域内に設けられております。古来、「敬神崇祖」が神道の根本的信仰であることは、我が国最古の古典とされる『古事記』に「参神造化の首(はじめ)と作(な)り、陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為れり」と記されていることからも窺われますが、我が日本の国土や神々、そして「青人草(あおひとくさ)」たる人間も、すべては「祖」たる伊邪那岐神・伊邪那美神の二神がムスビの神の霊力に拠ってお生みになられたものであります。また、当神社のご祭神は大国主命であり、この大神は世に幸いを賜る神であると共に、氏子・崇敬者の「幽界」を司る神でもあるといわれております。このように当久伊豆神社の祖霊社は、ご祭神大国主命のご神徳を賜り、広く氏子・崇敬者の皆様方の「敬神崇祖」に寄与するものと確信しております。

明治初期に中央に大教院、ほとんどの府県に中教院が設置され、各神社や寺院が小教院を開講し周辺住民への文明開化等の啓蒙・教化にあたりました。この小教院にちなみ昭和六十二年から、当代の代表的国学者である國學院大學の阪本是丸教授をお迎えして毎月一回、勉強会が開催されています。古事記・日本書紀等の古典を読みながら、神々について、我国の国柄について、その時々の事件や社会現象について講義を聞き、太古の昔から今日まで今もなお続いている日本人の生き方、惟神の生き方について理解を深めようと神職のみならず氏子崇敬者も参加しています。

当久伊豆神社に併設されている道場では、空手道、体操教室を開催しております。また、平日の午後は未就学児童の親子に開放しております。
- 空手道(子供) 火曜日・土曜日 19時~20時半
- 空手道(大人) 火曜日・木曜日・土曜日 21時~22時
- リズム体操 金曜日 20時~21時
- ストレッチ体操(シニア) 月曜日・金曜日 10時半~11時半
- 子育て支援道場開放 平日(土日・祝日を除く) 12時~16時
※なお、これらの稽古、教室、道場開放は神社のお祭り等の事情により休止することがあります。